その後の私たち
日大闘争の初期には、学生の言い分に理解を示していたメディアの論調も、バリケード排除出動の機動隊員の事故死を機に手のひらを返すように変化し、体制側の主張を一方的に流すようになった。
日大当局は息を吹き返したように圧力を増し、団交に応じるふりをしてひんぱんに機動隊出動を要請、学生を力で屈服させようとした。負傷者が続出し、デモしては逮捕される、過酷な日々が続いた。
校舎内に籠城を続けた132人の学生は突入した機動隊により逮捕されていった
芸術学部に打ち込まれた1200発の催涙弾
日大全共闘で闘った、多くの学友たちはその後どう生きたか。 卒業した者、中退した者、退学になった者、除籍処分を選らんだ者、どちらにしても、社会で生き行くには、いばらの道を自らの力で切り開くしかなかった仲間たちは日大を離れ、バラバラに各地に散った。
そこからは、一人一人が孤独で正解のない道をひたすら歩くしかなかった。
もう少し早く生まれるか、遅く生まれるかで。
もっと違う楽な人生があったことはたしかだった。
しかし今ふりかえると仲間と共に失わずに持ち続けている大切なものがあったことに気づく。
日大全共闘の闘士だったという誇りと、学友との強いきずなだ。「今、あいつは幸せでいるか」がどんなときも気になってならなかった。
あのときから、高齢になった今に至るまで、私たちの心の奥にいつのまにか、そのことがどっかり居座っていたのだ。