あの時代の私たち

1968年の春。                                                                         戦後の第一次ベビーブームに生まれた、私たちは、学生生活を謳歌する普通の学生だった。                                      一般教養の授業は、500人以上も収容できる講堂のような教室で教師がマイクで一方的にテキストを読み上げ、時間をやり過ごす。そんな質の低い授業ばかりだった。    マンモス大学といわれた日本大学は他大学より入学金や授業料が高く、毎年学費を値上げしたわりにどこの学部でも、同様の劣悪な教育環境だったのだ。          この年同大理工学部のある教授が3千万円にのぼる裏口入学あっせん料を受け取り、脱税していたことが発覚。日大本部に国税局の調査が立ち入り20億円もの使途不明金が明るみに出て世間の耳目を集めた。大卒者初任給が3万円前後の時代である。この使い道は、あとでわかったことだが、                          子飼い職員へのヤミ給与                                                                    理事会役員へのお手盛り給与                                                                  職員組合のスト妨害費                                                                     政治献金などであった                                                                     抗議の声をあげる学生たちをつぶす役割と役員の用心棒的位置づけの体育会系学生へお抱え費用も含まれていた。                            会頭とよばれていた当時のトップは、お金の流れも、管理もずさんで、学生のことや教育環境には全く無関心な人物だったのだ。                     半世紀を過ぎて、トップが変わっても、日大経営陣のこの悪しき体質がそのまま受け継がれてきたことは最近明るみに出た不祥事にもよくあらわれている。         ちなみに、日大の社会的信頼を失わせた前理事長は皮肉にも私たちと同世代で、当時の相撲部部員。本部役員おかかえの用心棒として私たちの民主化要求の活動につねに暴力で対峙、妨害した御仁であった。                                                                 私たち学生は若くまともな正義感を持っていたから使途不明金の背景にある日大の深い闇を本能的に感じとって憤った。

 

議せねばとだれもが思い、経済学部を筆頭に各学部で立ち上がった。秋田明大議長による日大全共闘が結成されると、知識人や歌手、一般の人々から共感とカンパが多く寄せられ時代の空気が私たちの背中を押してくれた。                                                         それが、日大闘争の原点だった。                                                                 9月4日、大学がわからの強制執行を受け、経済学部、法学部に権力による、機動隊の強制執行、徹底抗戦の末バリケイドの強制撤去解除、激動の10日間と呼ばれる経・法の延べ10万人とも言われる日大の学生たちの抗議デモ。9月30日日大講堂にて、入りきれないほどの全学部生数万人が集結して、大衆団交にて理事長以下理事の総退陣、日大学生たちたちの全面勝利と思われたが・・

                                9.30大衆団交・勝利の瞬間                             

話せば長くなる。かといって、あまり語りたがらない。                                                       11万もの学生一人にとっての日大闘争。                                                            それは、私たちが刻んだ、たしかな青春の日々でもあった。

その後の私たち                                                                          日大闘争の初期には、学生の言い分に理解を示していたメディアの論調も、バリケード排除出動の機動隊員の事故死を機に手のひらを返すように変化し、体制側の主張を一方的に流すようになった。                                                                      日大当局は息を吹き返したように圧力を増し、団交に応じるふりをしてひんぱんに機動隊出動を要請、学生を力で屈服させようとした。負傷者が続出し、デモしては逮捕される、過酷な日々が続いた

 

日大全共闘で闘った、多くの学友たちはその後どう生きたか。                                        卒業した者、中退した者、退学になった者、除籍処分を選らんだ者、どちらにしても、社会で生き行くには、いばらの道を自らの力で切り開くしかなかった.仲間たちは日大を離れ、バラバラに各地に散った。                                           そこからは、一人一人が孤独で正解のない道をひたすら歩くしかなかった。 もう少し早く生まれるか、遅く生まれるかで。もっと違う楽な人生があったことはたしかだった。しかし今ふりかえると仲間と共に失わずに持ち続けている大切なものがあったことに気づく。
日大全共闘の闘士だったという誇りと、学友との強いきずなだ。「今、あいつは幸せでいるか」がどんなときも気になってならなかった。      あのときから,
高齢になった,今に至るまで、私たちの心の奥にいつのまにか、そのことがどっかり居座っていたのだ

これからの私たち                                                                  

 

「闘ったことを忘れないでほしい、そしてそのことを肯定できる生き方をしてほしい」                                       当時,弱冠22歳の秋田議長が獄中でなげかけた言葉は                                                       私たちがその後を生きていく力ともなって今日がある。                                                      闘ったこと忘れず、後悔せず、肯定する生き方、今、私たちはそういう生き方ができているだろうか。                                 ある時代に変革をもたらす者のことを次代の申し子という。                                                    私たちはまぎれもなく、宿命を背負った、時代の申し子だった。                                                  だから、胸をはって生きていきたい。これからも、自信をもって生きていきたいのだ